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ellie@社会人 にねんめ


by ellie_sheep

近代思想最終課題「 ‘日本のフェミニズムの潮流―戦略という視点から’」

第10講においてフェミニズムは「普遍主義的フェミニズム」すなわちリベラル・フェミニズム、および「差異の思想としてのフェミニズム」すなわちラディカル・フェミニズムの二つに分類されていた。グローバルなフェミニズムのおおまかな流れを挙げてみると、リベラル・フェミニズム、マルクス主義における「外部(再生産)」市場を発見したマルクス主義フェミニズム、家父長制や結婚制度を糾弾したラディカル・フェミニズム、加えてエコロジカル・フェミニズムなどであろう。今日多くの日本のフェミニズムは、80年代半ば以降主にアメリカから導入された「マルクス主義フェミニズム」や「ラディカル・フェミニズム」に依拠している。
 ラディカル・フェミニズムがリベラル・フェミニズムを批判する理由は、上野千鶴子によれば「近代的‘自由’と‘平等’の概念に基づく市民革命を経たあとでも、なぜ女性が男性と同じように‘自由’と‘平等’を享受することができないのか、という問いに対しての‘理論’を提示しえないから」すなわちリベラリズムは歴然と存在する性差別構造には何も効力を持たずに、近代的人権思想が貫徹されれば女性も解放されるはずであるといった‘啓蒙’を繰り返すにとどまってきたからであるという。(*1)
その批判について考察するには、リベラリズムをより理解する必要がある。リベラリズムにおいて政治的に要請されるのは「抽象的な人格」であり、それは選択の帰結点であり、価値の源泉として承認される。(*1)重要なのは、リベラリズムは社会的不平等を「是正すべきもの」とみなすが、他方では個人の「選択の自由」を認めるが故に「選択の結果は個人に還元されるべき責任」として、問題そのものが伏され、結果的に現状維持に加担しかねないことである。さらに、個人は私的領域における幸福の目的を追求するものであると考えるために、国家はそれに関知せず公的領域における公正さを心がける。全員が「機会の平等」を満たしていない場合には改革を必要とする「改良主義」でもある。

堀先生の授業内でのラディカル・フェミニズムへの疑問は3つに収斂されると考える。①‘sex(解剖学的性差)’すら社会的に構築されたものである、というラディカル・フェミニズムの最先端理論は、‘イメージ’と‘現実’を区別しない本末転倒な理論ではないか②‘人権’をベースにしない、差異の強調が行き着くのは男女分離主義であり、袋小路の路ではないか③改良主義ではなく‘いつか革命が起こる’的なラディカルな思考方法(‘夫婦別姓’議論を通して)は非現実的ではないか。
それらの指摘をもとに、リベラル・ラディカルフェミニズムの関係とこれからの展望について考察していきたい。

まず私は、所与の性別を‘決定’ではなく‘状況’と考え、その変更可能性を示すリベラリズムの思想は‘ジェンダー’という概念を利用したフェミニズム(ラディカル・フェミニズムも含めて)と決して対立してはおらず、目標を共有していると考える。なぜなら、フェミニストが‘ジェンダー’という言葉を利用した目的は、性別役割分業に代表される性差別-‘女らしさ’として個人へ強制される女性の‘傾向’を含む-が決して女性の‘本質’に基づくものではないと指摘することにより、既存の性差別構造を正当化する一般的言説を糾弾するためであったからだ。
  
そこにおいてラディカル・フェミニズムは ‘制度(=男)’という戦う相手を明確に想定することによる(それは、結果的には男女の差異を際立たせる)急進性が見出せると考える。それは日本のフェミニスト達が対面した家父長制、ジェンダーを正当化する構造をえぐりだすためには必須の手段であったと考える。それによって、1985年に制定、1999年に改定されたの「男女雇用機会均等法」など、そもそものフェミニズムの発端においてリベラル・フェミニズムが達成しようとした女性の社会的地位向上―諸制度の制定が成し遂げられたのである。
仮にリベラル・フェミニズムがこの過程で利用されたのであれば、「女性の選択である」として公における差別を黙認し、いずれは「個人に帰せられるべき問題」として現状維持に加担する結果となっていたのではないか。さらに「個人的なことは政治的なこと」をスローガンに家庭内暴力などに切り込んでいった所謂「第二派フェミニズム」が解決した私領域における問題を逆に封じることになってしまったのではないかーそのような疑問を免れない。

②について、今日のラディカル・フェミニズムが目指しているように見える「分離主義」は、普遍主義という視点からはじめて見えてくるものであり、長期的目標という視点から見れば確かに「袋小路の路」であろう。
ゆえに、ラディカル・フェミの行き着く先―分離主義―を避けるために、今後フェミニズムには2つの「戦略」が必要であると私には思われる。ひとつめは、リベラリズムの目標として平等な「個人」を達成する、という長期的目標をみすえたうえで、ラディカル・フェミニズムー差異―を「戦略的」に利用すること、そしてそのような視点を持つことである。堀先生は「普遍性」を「差異」より上位におく、と表現されていたがーそのような位置づけは必要であると考える。

2つ目の戦略は、①に関連している。わたしは生物学的性差も構築されたものであるというラディカル・フェニズムの一部意見に対して否定的であり、なぜなら生物学的・解剖学的性差も社会的に構築されたものであるとする論は突き詰めて考えてみると「男性」も「女性」も同じであるという「区別」の撤廃であるからだ。それは今後一切の「生殖の否定」にしか帰着しないと考える。―たとえ人工授精が可能になったところで、性は「機能」として2つのカテゴリに還元されてしまうことは避けられない。わたしが言いたいのはその「機能」が「自然」だという押し付けではなく、フェミニストが理論を組み立てるときには、生物学的性差の「機能」と、生殖技術の技術的進歩がもたらす影響もふまえながら行うべきであり、誤読されてきたような意味での「ジェンダー・フリー=中性化」は無意味であり、達成されるべきではないということだ。(正しくは‘ジェンダー・バイアス・フリー’である)
すべてを「構築された」ものであるとするでもなく、すべて「生物学的性差」に帰納するのでもなく、そもそも‘状況’と‘決定’の境界をひくことが困難なのであるから、「境界」の「戦略的利用」を意識すべきだ。‘母性本能’の否定により‘育児休業法’が制定されたように、目的を定めたうえでその境界を定め、利用するべきだと考えている。

最後に、③の「非・改良主義」批判に関係する、現在の日本のフェミニズムの問題点について考察したい。「非・改良主義」として批判される「夫婦別姓」に関して、私は、長期的目標「結婚制度・家父長制の終焉」の達成困難を鑑みれば‘別姓’への拘泥は無意味だと考えているが、現状において女性にとって可能な選択肢を作るという点では評価できる。フェミニストたちは夫婦別姓議論を「あほくさい」と一蹴しながらも一方では黙々と「夫婦別姓」への動きを続けているように、表面的には「非改良主義」かもしれないが、実際には充分に「実践的改良主義」であるからだ。80年代フェミニズムにおいて、女性にのみ厳しい性規範の解放のための運動内などで過激な発言、運動があり、それらの流れを継いだ「先鋭理論重視」という風潮は、80年代生まれの比較的若い女性からフェミニズムが倦厭される充分な理由となっているが、フェミニズムはその「急進性」が問題なのではなく、その「宣伝方法」を誤っているだけなのであると私は考える。そしてフェミニズムの宣伝戦略はことごとく失敗を経験しているのである。

以上をふまえながら、現在に問題にすべきフェミニズムの本当の問題とは何かを考察したい。90年代、法律面での目標をある程度達成したにもかかわらず性別役割分業が厳然と存在する現実に直面した世代は、理想(法律の制定)と現実(性別役割分業の温存)の乖離に気づき、「仕事も家事も」という理想像を振りまいたフェミニストたちを「結局家庭と仕事の二重苦労で馬鹿をみる」だけだと批判する。さらに以前は構造や制度のせいにできたことが、今は個人の責任へと転化されており、フェミニズムを「甘え」とする風潮もある(*2)「女達よ、団結しよう」と訴えた女性たちの世代は過ぎ、今や女性たちはジェンダー(女らしさ)を、日々着る洋服や、演じてみせる言動の選択肢の一つとしかみなしていない。(*3)
現在女性個々人たちには「伝統的ジェンダー」と「非伝統的ジェンダー」という選択肢が与えられているが、それは性差別がなくなったこととまったく同義ではなく、むしろ前者が温存されているということを意味している。講義でもとりあげられていたが、細分化し拡散した日本のフェミニズムをどうするかー「女」の細分化や世代間格差―は本質的問題であり、より複雑なものとなりつつある。
現段階においては「理想と現実の乖離を解消するための、罰則規定も含めた‘使える’法律の改正」「NPOなど草の根運動の継続」「‘押し付けがましい啓蒙’に終始しない、新たな啓蒙活動」など個別の解決策が考えられるだろう。なにより、二つの「戦略」の利用、これが長期的に見れば最も重要であると考えている。

最後に、リベラリズムが陥った「個人の選択の自由」の許容による性差別構造の温存のように、「個人が先行している」として本論がすべて片付けることにより、フェミニズムの源泉である草の根レベルの女性の声を封じるようなことがあってはならない。そのことを充分に肝に銘じる必要があるだろう。今後もリベラリズムから得られた重要な知見を基に考察を続けていきたい。

*1 「フェミニズムとリベラリズム」/江原由美子編/勁草書房/2001/
*2 「フェミニズムのパラドックスー定着による拡散―」/江原由美子/勁草書房/2000/
*3 2005年雑誌研究を通して-代表的な女性向けファッション雑誌、および男性向け雑誌をピックアップしそこに表象される現代のジェンダーを調べた。わたしはその結果を‘ジェンダーよりも個性が先行するようになった’と表現している。しかし、当然ながらリベラル・フェミニズムの想定する「個人」とわたしが「ジェンダーに先行する」と考えた「個人」は同じものではない。
by ellie_sheep | 2005-10-11 04:53